結局鈴木

 鈴木愛理さんのアニソンカバー動画を執拗に観ている。ここ数日で最も聴いているのが『チューリングラブ』。オーイシマサヨシさんも好きだからデュエットは嬉しい。『ユメヲカケル』『残響散歌』『サインはB』辺りもよく聴いている。オリジナル曲の『最強の推し!』も好き。ポジティブな気持ちになれる。

 鈴木愛理さんは歌もダンスも表情も素晴らしいのはもちろんのこと、何といってもあの持ち前の明るさと、肉体の丈夫さが好き。健康的、と言うべきかもしれない。だから生き物として総合的に憧れている。失礼かもしれないけれど、鈴木愛理さんはいついかなるときもぐらぐらしちゃわないんだろうな、と勝手な期待を抱いている。完璧超人なんだろうな、と夢を見させてくれるほどの安心感がある。

 最近の鈴木愛理さんの黒髪ぱっつんが可愛すぎて、私も自分で前髪をぱっつんに切ってみたら、案の定失敗した。自分で前髪を切って失敗しないことなんて、そういえばなかった。二センチだけ切るつもりがバランスを整えているうちに四センチくらい切ってしまったし、サイドまでいってしまった。まあ、おかげで視界良好となったので良しとする。


 つい先ほど、九段理江先生の『Schoolgirl』を読み終えた。太宰治の『女生徒』を踏襲していることは、中盤を過ぎたあたりでようやく気づいた。タイトルから、学園物の話かと思っていたが、母と娘の話だった。AIの存在感もカットバック(ゴシック体)の手法も学術的な語り口も『東京都同情塔』に通ずるものがあり、終始面白く読んだ。九段先生は小説を書くときに百冊は本を読むらしく、そのインタビューを読んだときは卒倒するかと思った。けれど、だからこそこういう話が書けるんだろうな。

 ものすごく揺さぶられた一文があるので引用したい。

“どうして女の子は、娘っていうのは、こんなにいつでも、お母さんのことを考えてばかりいるんだろうって、そのことがたまらないんですよ。”

 この一文を読んだ瞬間、叫んでしまうかと思った。カフェにいたので我慢した。

 太宰治の『女生徒』もパンチラインの連続なので、言葉を選ばず言うと、やばい。

“しゅっしゅっとお米をとぎながら、私は、お母さんが可愛く、いじらしくなって、大事にしようと、しんから思う。”

“お客さんと対しているときのお母さんは、お母さんじゃない。ただの弱い女だ。”

 これが1939年に書かれたという事実。

 母娘といえば、宇佐見りん先生の『かか』も良い。

“みっくん、うーちゃんはね、かかを産みたかった。かかをにんしんしたかったんよ”

 もうやめてくれー!と、思わず叫びたくなる。作家たちの巧みな言語化能力が恐ろしい。本当のことを書くのはやめていただきたい。

 何なんだろう、この、母を不憫だと思う気持ちは。祖母が母を産むよりも、私が母を産んだ方がまだ母は幸福だったんじゃないか、と考えてしまう、この気持ち。出産なんて崇高な行いを、ましてや養育なんて偉業を私には到底できっこないんだけど、それでも、もし生まれてくるのが母ならば、頑張って育てたいなと思う。何なんだろう、この気持ち。母の誕生日を一歳からお祝いしたかった。一歳の母は絶対に可愛かっただろう。貧しくて、毎日同じ服で学校に行っていたらしいけど、私が母の母親ならば、季節ごとに服を買ってあげたい。そんなことを考えていたら何故か泣けてきた。全然悲しいわけじゃないのに、本当に不思議だ。母のことを考えると、いつもこうして我を失ってしまう気がする。

 鈴木愛理さんを摂取することにする。