車検

 昨日、車検のためディーラーに車を預けた。代車を借りた。代車に乗るのはいつも気が引ける。うっかり汚してしまうんじゃないか、慣れない車で事故を起こしてしまうんじゃないか……と。なので徒歩で郵便局に向かうことにした。天気も良いので好都合だった。でもいかんせん良すぎた。暑さに気が滅入りそうになりながら運動不足の身体を引きずって郵便局に辿り着いた。
 初めて向き合う現金書留の封筒は普通の封筒と違って厳重な構造になっていた。封をするにも順序があり、下蓋と中蓋と上蓋とを正しく貼り合わせる必要があった。四百円を送るのに五百二十九円もかかって驚いた。送付先は同じ街にあるので、直接持参しても良かった。でも私はこれまであらゆることに関して、他者とのコミュニケーションを避けられる手段を選んできた。サロンやクリニックは、電話よりもメール、メールよりもホットペッパーを選ぶ。ファミレスは店員さんを呼ぶよりもタッチパネルで注文できるお店を選ぶ。コンビニにセルフレジがあれば必ずそちらに行く。そのように生きてきたので直接持参と郵送とが選べると分かったとき、後者しか目に入らなかった。
 郵便局から出ると眩しい太陽が照りつけていて、喉の渇きと空腹を自覚した。喫茶店に立ち寄ることにした。他者とのコミュニケーションを回避し続けているにも関わらず、店内に入るときには必ず「こんにちは」と言わなければならない。消毒液ディスペンサーに両手を差し出すと消毒液が噴出されると共に検温計のパネルが光り、「正常です」と許しを貰う。ちょっと浮足立ちながら一番奥の席に着く。私以外にお客さんは一組だけだった。ナポリタンと紅茶のセットを注文し、姉とラインで会話する。店内には至るところに壁時計があり、秒針がカチコチと絶えず鳴り続けている。おそらく昔からこうだったのに、何故か今は追い立てられているように感じられ、落ち着かなくなる。紅茶が到着する。一口飲む。ちょっと渋め。ナポリタンが到着する。スープは熱いのでお気をつけください、ありがとうございます。サラダのドレッシングが美味しい。柔らかめの麺と昔ながらのこってりしたソースが美味しい。半分ほど食べた後に粉チーズを振りかけ、味変を楽しむ。早食いなので十分ほどで完食。まだ紅茶は温かかった。スープはさして熱くはなかった。カチコチカチコチ、背後で店員さん(多分マスターの奥様)とお客さんが楽しげに会話している、カチコチカチコチ、早く出なくちゃ。滞在時間三十五分ほどで店を後にすると太陽が更に激しく光っていた。脳裏に『熱っちぃ地球を冷ますんだっ』が過ぎった。
 そういえば次の週末に物件の内覧に行くんだった、と思い出し、一足先に下見をしに行くことにする。ぐるぐる歩いてグーグルマップを頼りつつ辿り着く。サイトには角部屋と表記されていたが、実際には角ではなかった。階段やエントランスがお洒落で陽当たりも良さそうだった。でも引っ越しにすぐ踏み切ることはなさそうだなと思いながらマンションを後にした。帰途で自動販売機に寄り、メロンソーダを購入した。
 帰宅。ドアを開けた瞬間、むわりと熱気に襲われる。玄関の消毒液で手を消毒してバッグを置いて手洗いうがいをしてエアコンと扇風機をつける。隣人のテレビの音が激薄の壁越しに響いてきていた。隣人のテレビは男性の話し声しか流さない。低音が響きやすいからそう聴こえるだけなのかもしれない。ひょっとするとテレビではなくラジオやYouTubeなのかもしれない。隣人は音楽も流す。ボーンボーン、と名称不明の楽器の音が聴こえてくる。color-codeの曲を流してメロンソーダを飲んで服を脱いでこの文章を書いているうちに途中で飽きてツイッターで神絵師のツイートを遡上したら「電車で静かに泣いた」といった文章に出くわした(ノット原文ママ)。この「静かに泣いた」に遭遇する度に一人称単数で語られることへの違和感が募る。「彼女は静かに泣いた」ならすぐに飲み込めるのに「私は静かに泣いた」になると一気に信用を失うのはどうしてだろう。電車内ならば静かに泣くのは当然だから? 静かに泣く姿を客観視していることへの疑念から? そういったメタ認知能力のある人が人前で泣くわけがないという偏見的思想から? そもそもそう簡単に電車内で人が泣くものなのだろうか? 「私は激しく泣いた」は理解できる。涙が止んだ後に激情が退いたと想像できるから。でも泣くこと自体がある種激しい行為なのだから、静動関係なく同じことが言えるのではないかとも思う。
 ここまで書き終えて寝転がって小説を読んでディーラーに車を取りに行って十三万円を支払って緑茶を飲んだ。代車はほとんど乗らなかったものの、とても可愛い車だったので次に買う有力候補となった。サイトを見たらカラーバリエーションに赤もあった。今乗っている車も赤。次は赤か青か黄かオレンジかピンクがいい。パキッとした色がいい。